7.

 もう、何年前のことだろうか。・・・・・・そう、3年前だ。私が彼女と出会ったのは。

ディルティルスは一人、回想する。

 彼女を見た・・・というよりも、気が付いたというべきだろうか・・・のは、何もない、そう、ちょうど

この牢屋の中のように、ただ真っ暗で静かな空間だった。


私は、・・・・・・私も、しばらくそこを彷徨っていたのだ。

彼女は、私の目の前に佇んでいた。


子供姿の彼女には、おおよそ似合わない、まっさらな横顔をして。


私は迷った・・・ような気がする。今にして思えば、躊躇っていたのかもしれない。

・・・・・・彼女に話しかけることを。

何故ならば、話しかけでもすると、今にも彼女は泣き出してしまいそうに思えたのだ。何故かは

分からないが、そう私は思った。

 そんなふうに私が戸惑っていると、彼女の方も私に気が付いた。そして、こちらをそっと振り

返った。


・・・・・・まだ、十歳にも満たないだろう。肩まで伸ばした黒い艶のある髪、小さな靴に、ほっそり

とした白い腕。リボンのたくさん付いた、可愛らしいピンク色のワンピースを着ていた。・・・そう

いえば、秋子も、小さいころにこんな風な服を着ていたなと、ふと思った。

「・・・・・・ここで、何を」

 掛ける言葉が見つからなかった私は、今にして思えばそんな的外れなことを、彼女に訊いた。

彼女は下を向いて、なかなか答えようとはしなかった。その場で私は立ち止まったまま、彼女の

ことを見守った。


「・・・死んじゃうの」

 そしてようやく彼女の口から漏れてきたその言葉は、想像していたような穏やかなものではな

かった。

「ここにはずっと一人でいるのか?」

 見たところ、ここ・・・・・・この夢には、自分の他には誰もいない。

 いつからこの夢を見ているのかは分からないが、この子は、ずっと一人で泣いている夢ばかり

見ていたのだろうか?

訊いてみると、やはり彼女は小さく頷いた。

「お母さんの前で泣いたら、お母さん、悲しむから・・・・・・」

 何故、楽しい夢が見られないのか、その方が、ずっと楽になるはず・・・そう思った私を、彼女は

そう言って否定した。

 なんて、この子は優しい心を持っているんだろう。いや、それとも、子供の頃は皆、そうだった

のだろうか・・・・・・

「・・・だったら、楽しい夢を見たらどうだ?」

 ずっと・・・幼い彼女が、死ぬまでこの悲しみを背負うのは、余りにも哀れなことだ。だったらせ

めて、夢の中だけでも、楽しく笑うことのできる時を過ごせないだろうか・・・。

 それは、浅はかな考えかもしれないが、私はせめて一度でいいから、彼女が笑う顔を、この

夢の中で見てみたかった。

「楽しい、夢・・・?」

 怪訝そうな表情で、彼女は上目遣いにそう聞き返した。そんなことは、考えたこともなかったの

だろう・・・いや、考えられなかったのかもしれない。

だが、このままでは・・・・・・あまりに、可哀想だ。


 ぽかんとした表情で見つめる少女に、私は近づいた。

どうしても、しっかりと伝えたかったのだ。

「ここは、君の夢だ。君が見てみたい夢を想像してごらん。悲しい夢じゃだめだよ。・・・君の、

夢の世界を、君が創るんだ」

 自分の真意が伝わったかどうかはわからないが、その時彼女は小さく・・・だが確かに頷いた。

ふと、彼女は私に尋ねた。

「お兄ちゃん・・・は、名前、何て言うの?」

 彼女の前にしゃがみこんで、視線を合わせて私はこう答えたのを覚えている。

「・・・・・・来栖 冬雄」

「とし・・・お兄ちゃん?・・・私は、まなみ」

「まなみちゃん・・・だね」

「うん・・・・・・。としお兄ちゃん、ありがとう」



――それが、この終わりなき夢の、始まりだった。



* * *

「最近アッコさぁ〜、なんかいいことあった?」

 いつものようにトレイにMサイズのポテトとウーロン茶を載せた京子は、椅子に腰を下ろす

なりそう言った。

「え〜?・・・特に何にもないよ?純也のライブがあるからかな?」

「でもあれって、まだだいぶ先じゃない。・・・・・・もぉ〜大親友のけい様に、隠し事するなん

てひどいなキミは〜」

 イタズラっぽい目つきで、京子は秋子を追求する。一方の秋子は、まったく心当たりがない。

「ね〜、ナニがあったのよ?・・・ほら、早く言って楽になっちゃいなさいよっ」

「な、何もないって」

「嘘」

 親友と悪友は本当に紙一重だと、秋子は内心思う。それはともかく、追求の手を緩めない

彼女には申し訳ないが、秋子にはまったく心当たりがなかった。・・・何しろ、どうしてそのよ

うなことを聞かれるのかということでさえ、わからないのだから。

「ほんっとーに、何もないの?」

「ないけど・・・・・・どうして?何か、私変わった?」

 秋子の答に心底納得していない表情で、京子はウーロン茶を吸った。

「だって、なんか最近のアッコって、明るいんだもん」

「え・・・?」

「いや、別に悪いことじゃないんだけど。・・・なんか、昔みたいでさ。・・・・・・覚えてる?ア

ッコのお兄さんと、よく3人で、公園で遊んだよね」

 それは秋子にとって、虚を突かれた言葉だった。ぽかんとした表情のままの秋子に構わ

ず、彼女は話を続けた。

「いつだったっけ?雪が沢山降った年!雪合戦やるって言ったら、アッコ、こんなに大きな

玉を投げようとしたよね、私に」

 そう言って、彼女は両手でバレーボールほどの大きさを示してみせる。

「そうだっけ?」

「うん!それで、私と兄さんで逃げ回ってたら、通りがかった関係のない人に当たっちゃっ

て、三人で夕食時まで怒られたんだよね〜」

 そういえば、京子の言うように、三人で雪合戦をした覚えがあった。

ふいに、秋子の心の中の情景が、鮮やかな色をもって蘇ってきた。まるで曇りきっていた

空が、一瞬にして晴れ渡るかのように。

「よく覚えてるね、おけい」

 確かあれは、小学校に上がったばかりの頃のことだ。秋子は親友の記憶力の良さに感心

する。

「恐れ入ったか!このおけい様に」

 秋子の驚く様子に、少し調子に乗った京子は自慢げに言った。


 けれども・・・・・・。

本当は、違うのかもしれない。

自分がただ忘れてしまっていただけなのかもしれなかった。

「他にも色々あったよね、キッシーごっこで町内一周したり、夏祭りでアッコ、兄さんの金魚す

くい用のモナカ食べちゃったりしてさ」

 京子の思い出話は続く。

いったい自分は、いつから忘れていたのだろうか。秋子は思う。

いつの間にか、自分は楽しい思い出を、奥の方に押しやっていたのだ。・・・・・・なぜ?


 それは決して、彼女が思い出したくなかったからではない。

秋子は思い返してみる。


小学校から中学校に上がって、兄が進学の時期を迎えることになって、それから・・・・・・。


 秋子はいつしか、自分自身に対する他人の視線を気にするようになっていたのだ。それは、

自分の両親に対しても、例外ではない。


 自分は落ちこぼれで、何をやっても、評価されるのはいつも兄のほうだった。


それが嫌で、いつの間にか、兄を避けるようになっていた。兄との楽しい思い出も、思い出せ

なくなって・・・・・・その時を思い出すと、辛くなった。

 いつまでも続くと思っていた楽しい時間。永遠と続いて欲しかった。

その願いの後に続くのはいつも、何が原因なのかという疑問だ。


何が変わってしまったのかと思う。・・・・・・それを考え始めると、その原因はいつも、結局のとこ

ろは己のところに行き着いてしまう。

 私がいけないのだ、と。

そこに、親の言葉が重なるのだ。


『秋子がもっとしっかりしてないから、冬雄があんなふうになったんじゃないか!』

『冬雄もいまごろは立派な大学生なってたろうに・・・』


勿論、親にとっては、ただのイラつきの表現なのかもしれなかった。

親として、何もしてやれないことへの苛立ちだ。・・・・・・だが、秋子にとってそれは、自分への

失望感を募らせることにしか、繋がらなかった。


・・・・・・私なんか、生まれてこないほうがよかったのに。

・・・私なんか、生きていても仕方がないのに。


 ほんの些細なことが、彼女の心の奥底に降り積もり、彼女の顔からいつしか、本当の笑顔を

消し去ってしまっていた。それが当たり前になっていて・・・・・・そのことを、秋子は改めて自覚

する。

「・・・ねえ、ちょっと、どうしたの?」

「ううん、なんでもない。ちょっと目にごみが入っちゃったみたいで・・・トイレ、行ってくるね」

 秋子は席を立ち上がる。


悲しかった。苦しかった。・・・・・・そのことに気がついたら、また何かが押し寄せてきて、胸が

苦しくなってしまった。この苦しみを抑えるために、秋子は思い出を奥底にしまっていたという

のに。

 トイレに入った秋子のその脳裏にふと、そこに誰かの声が甦った――

『――いい、兄妹じゃないか』

「・・・・・・え?」

 はっとして、秋子は顔を上げた。

『・・・・・・お前はその兄さんにとって、間違いなく大切な家族だったはずだ』

 聞こえてきたのは、どこかで聞き覚えのある男の声。・・・・・・ああ、あの夢に出てきた人だ。

曖昧な夢の中の出来事の中から、秋子は無意識にあの時の青年との会話を少し思い出して

いた。誰なのかはよく覚えていないのだが、その彼の言葉は確かに、秋子の心を落ち着かせ

た。

「・・・・・・私は、生きてるんだよね・・・」

 兄が秋子のことをどう思っていたのかということなど、考えたことがなかった。いや、考えたく

もなかったのだ。・・・・・・それを知ったら、自分自身を本当に見失いそうだったから。

 だからこそ、青年の言葉が、とてもありがたく、それが本当であって欲しいと”願う”気持ちが、

再び彼女の中に甦った。・・・・・・あの夢を見た後に心が和むような気がしたのは、そのため

だったのだろう。

 涙に濡れた手を洗い流すと、秋子の沈んだ心もまた、そこに洗い流されていくのを彼女は感

じていた。






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