| 9. * * * 目を覚ました秋子は、自分の鼓動が妙に早いことに気がついた。 いったい、どんな夢を見ていたのだろう。 ・・・・・・長い夢を、見ていたような気がした。 日付は7月3日・・・。時刻は7時よりも僅かに早い。もうすぐ、目覚まし時計が起床を告 げるだろう。 秋子は身を起こして、学校へ行くための支度をし始めた。 制服を着て階段を下に降りると、母親がなにやら慌しく動いていた。・・・・・・どうやら、 朝食の支度をしているわけではなさそうだ。今月からスーパーの仕事時間が早くなっ たのだろうか。・・・・・・だが、昨日と一昨日はこんなに早い時間ではなかった。いった い、どうしたんだろう。 台所に入ってみれば、すでに朝食は用意されていた。慌てて台所に入ってきた母親 は、秋子に今日の放課後に時間はあるか、と訊いた。 「・・・ううん、何もないけど」 「そう、じゃあ時間があったら、病院に寄って頂戴。今日は母さんもパート休むから」 どうやら、尋常ではないようだ。兄に何が起こったというのだろう。 「兄さん、どうかしたの?」 「昨日の夜、様態に変化があったらしいの。今は安定してるらしいけれど・・・」 母親の声には、いつになく元気がない。・・・三年前の、あの時と同じだ。 「なるべく早く行くようにするね」 もしかしたら、朝からの胸騒ぎはこのことを予感していたからなのかもしれないと、飲み込 んだパンが喉に詰まるような不快感を感じながら、秋子はそう思った。 ◇ ◇ ◇ 酒場の上の部屋のベッドに横たえられたデルタに、ユゥアは複雑な思いだった。 相棒のことも含め、分からないことが、多過ぎるのだ。 彼がこの夢を見始めて、一年が経とうとしている。てっきり、もうこの世界の殆どを知り 尽くしていたと思っていたのに、今日の昼の出来事でそれが間違っていることがわか った。それも、身近にいた人々のせいで、だ。 確かに、オルフが夢幻の王であることは、もっと早くに気が付いてもよかったかもしれ ない。彼の場合、あまりにも身近過ぎて見えなくなっていたのだ。 そして、デルタ。 彼については、未だに分からないことの方が多い。しかも、推測できる域ではない事実 がありそうだった。 ユゥアは、隣の椅子に座って静かにデルタを見つめる相棒に、目をやった。彼は今、何 を考えているのだろう。 視線に気が付いたオルフは、彼を振り返って言った。 「ユゥアさんもお疲れでしょう。今日はもう休んでください」 「いや、俺は大丈夫だ」 拒むユゥアに、オルフは少し笑って言った。・・・・・・苦笑だったのかもしれない。 「大丈夫ですよ。・・・もう、デルタさんに怒りは感じていませんから。それに、ここからあそ こまで一気に走ってきたんですから、ユゥアさんが疲れていないはずはないですよ」 考えていたことを見透かされて、ユゥアもまた苦笑した。彼は軽く頷くと、その場を離れて 部屋のドアを開けた。 「・・・わかった。相棒、デルタを頼むぜ」 「・・・・・・はい。お休みなさい、ユゥアさん」 隣の部屋で寝ているアキやリンを気遣い、ユゥアは静かにドアを閉めて酒場を後にした。 外は、珍しく雨が降り始めていた。夢の中の天気の変化は、現実とはだいぶ違う。現実 ではまだ梅雨明けが先だったが、ここでは曇天が続いているものの雨は滅多に降らない。 ・・・・・・夢の中でまで雨を降らせたくないという、人々の思いがあるからなのかもしれなか った。 酒場の裏口から、ユゥアは傘も差さずに通りに出た。雨の匂いに混ざって、街には露店や レストランから漂ってくる食べ物の匂いが満ちていた。その匂いが彼の鼻をくすぐって、彼は 今日はまだ一度しか食事を取っていないことを思い出した。足早に表通りへと周り、自分の アトリエへと向かう。日が暮れて幾分時間が経つが、まだ表通りは賑わいを見せている。あ と数時間もすれば、街も寝静まることだろう。 ユゥアは、焼きそばや肉まんを売る露店に軽く視線を走らせて、夕食を何にしようか悩んだ。 いつもなら、酒場のマスターが常連のユゥアに夕食を作ってくれるのだが、昨日のことをま だ怒っているらしく、結局今日一日は何も作ってはくれなかったのだ。ユゥアは、ピザを焼い ている店に入ると、「今日のスペシャルピザ」をテイクアウトした。このメインストリートにある 露店には一応食べるスペースが用意されているのだが、雨を防ぐための覆いまでは用意さ れていない。焼きたてのピザが冷めないようにと、箱を受け取った彼はアトリエへと急いだ。 それから少し歩いたところで、彼は足を止めた。・・・・・・自分のアトリエの前に、何者かが 佇んでいるのが見えたからだった。その人影には、明らかに見覚えがあった。 傘も差さずにアトリエを見つめていた彼女は、ユゥアに気がついたのか彼の方を振り返 った。 「・・・・・・あんたは」 掛けた声が、妙に乾いていた。 「・・・・・・貴方の絵を、見たくなったの」 それが彼女の本心ではないということが、ユゥアにはなんとなくわかった。彼は彼女の前を 過ぎて、アトリエの鍵を開けた。 「――入ってくれ。風邪を引く」 ユゥアがドアを開けると、彼女・・・・・・ヘラは、静かに中へと入っていった。 Ψ Ψ Ψ ユゥアが去った後の部屋は、静けさに包まれていた。 静かな部屋には、雨音と屋根から滴る露の単調な音が満ちている。 「・・・・・・いつまで、そうしているおつもりですか?」 静かなオルフの言葉は、狭い部屋の中に反響して周りの音を消し、妙な存在感を感じさせ た。問われたデルタは、黙したまま閉ざしていた瞳を開けた。 「・・・ユゥアは?」 「先にアトリエでお休みです。リンさんとアキさんは、隣で」 それきりしばらくは、二人の間を雨の音が埋めた。端から見いる者がいれば、喧嘩の後の ような気まずさを感じるかもしれない。確かに、お互い気まずいと思っているのだが、それ は別のことに由来する気まずさだった。 「・・・・・・彼女とは、いつからお知り合いなのですか?」 先に静寂を破ったのは、オルフの方だった。問う彼の声色に、ロストで聞いたような怒りは もはや感じられない。 「・・・・・・昔から。・・・この、世界が、出来る前からの・・・古い、知り合いだ」 デルタの答えに、もはやオルフは動揺しない。デルタが、自分以外の王と知り合いだということ だけで、すでに十分驚いているからだった。 「では、どうして彼女が、私の国を破壊しなければならなかったのか・・・貴方は御存知なの ですね?」 ロストでデルタがオルフの前に現れた理由・・・それは、彼が彼女・・・ヘラのことを庇おうとし たからだろう。彼は最後まで、ヘラのことを話そうとはしなかった。それは、彼女が夢幻を 破壊した本人で、何故そうしたのかを知っているからに他ならない。 もしも、単なる破壊や侵入が目的だったのであれば、デルタの性格を考えると、命を賭けて まで彼女を庇ったりはしないだろう。ならば、彼女が破壊したのには、やむを得ない事情があ ったと考えられる。・・・・・・その、事情が知りたかった。 満足できるものではなくとも、訳を知りたいのだ。 「・・・知っているとも言えるが、全てを知っているわけではない。・・・知りたいなら、本人に 直接訊いた方がいい。・・・早いうちにな」 はっきりしないデルタの答えに、オルフは苦笑する。命を賭けてまで、彼女のことを話そ うとしなかった彼の口の堅さを考えれば、彼がここであっさり話すとは到底思えなかった。 だが、それにしても気になったのは、最後に付け加えた部分だった。どういうことかと思 っていたオルフィウスの思考を遮るように、デルタは言葉を続けた。 「・・・オルフ。お前がここにいるのは、夢幻崩壊の理由を知りたいと思う気持ちからなの か?」 思わぬ指摘に、オルフは少し考えて、やがて静かに頷いた。 「・・・そう、なのでしょう」 だが、そう答えたものの、どこかが納得できないでいた。夢幻が滅びてからのこの一年、 オルフは何故滅びてしまったのか、そして何故自分はまだこの夢を見続けているのか、 ずっと考えていた。 人は、必ずしも意識して行動しているとは限らない。無意識のうちに残しているもの・・・ ・・・残したいと望んでいるもの・・・・・・それが、今はロストとなった夢幻なのだと、彼は考 えた。自分には、まだこの夢に対する未練の気持ちがある。それが、自分にこの夢を見 せているのだ。 「・・・・・・そうか」 デルタの返事は、どこか納得していないような、釈然としないような、中途半端な響きを 含んでいた・・・・・・そのように、オルフィウスは感じた。あるいは、自分の迷いが、デルタ の静かな声に反映されて、そう聞こえたのかもしれない。 「・・・しばらく、お暇しますね」 オルフィウスは席を立ち上がったが、その動きはいつもよりもどこか鈍い。視線だけで見送 るデルタを、彼が振り返ることはなかった。 階段を降りた先のカウンターには、寝室で休んでいると思われたアキが、座っていた。 いったい、こんな時間にどうしたのだろう。 「眠れませんか・・・?というのも、変な質問ですね」 近づいたオルフの掛けた言葉に、彼女は少し笑った。 「大丈夫ですか、今、こちらに来ていても」 アキは、黙って頷いた。その返事に、オルフは軽く笑いながら、彼女の横の席に着いた。そして、 マスターに注文をしようとしたが、未だマスターが戻ってきていないことに気がついて、仕方なしに 近くのアイスポットから烏龍茶をグラスに注いだ。 |