10.

* * *

「アキさんは、どうしてこの世界にいるのですか?」

「・・・・・・わからない」

 オルフの言葉にアキはしばらく考え込むが、答えは一つだった。

――わからない。

 今は、なんとも思っていないが、この前までは早くこんな夢は終わって欲しいと望んでいた。そ

れなのに、私はこの夢を見続けていた。それは、誰かが私を生かしているからに他ならないの

だと、リンの話を聞いてアキは思っていた。でも今は――見ているのが苦痛ではなくなった今も、

やはり生かされているのだろうか。

「わからない・・・でしょうね。私にも、わかりません。何故、自分がこの夢を見続けているのか・・・」

 そう言って、彼は烏龍茶に口を浸けた。秋子は首を傾げる。

「え・・・・・・?」

 この世界にいる人は、自分で生きたいと思う人と、何者かに生かされている人のどちらかだと、

前に聞いた。てっきりアキは、オルフが彼自身の意志でこの夢を見ているものと思っていたの

だ。

「ちょっと、わからなくなってしまいました」

 少し困ったように、彼は言う。その口調は、いつものように優しい響きを含んでいるものの、ど

こか穏やかさを欠いているように思えた。

「オルフさんは、リンさんに生かされてるんじゃ、ないでしょうか?」

 思ったままのことを、秋子は言ってみた。リンの彼への思い入れは、並大抵のものではない。

夢の中でも、このように誰かを好きになることができるなんて、とても素敵なことだ。きっと、目

覚めた時の清々しさは、その日一日を素晴らしいものに感じさせてくれることだろう。秋子が以

前、赤谷純也の夢を見たその日1日が、そうだったように。

「アキさんは、そう思いますか」

「・・・あんなに一途なんですから、きっとそうなんじゃないかなって、私思います。・・・・・・オルフさ

んは、リンさんのこと、好きじゃないんですか?」

 ふと、彼女がそう訊いた時、オルフの顔が強張った。一瞬のことだったので、アキにはそれが

自分の見間違いだと思ったが、どうやらそうではないようだった。

「そう・・・・・・ですね。大切にしたい、と思っています。ですが――」

 言葉を一度切って・・・少しの間を置いて、彼は続けた。

「ですが、私は本当に、彼女のことが好きなんでしょうか」

 アキには、オルフの言葉の意味が、わからなかった。冗談かとも思ったが、無意識に合わせた

その双眸が、いつになく真剣な青い光を放っていたことが、その可能性を否定した。

「どういう、意味・・・?」

「相手にいくら好意を持って頂いても、そのことと本人が好きなこととは、まったく別なことなの

ではないでしょうか」

 オルフは言う。

 秋子にはわからない。確かに、自分が好きであっても、相手に好きになってもらえないことは

ある。彼女がいくら赤谷純也に好意を持っていても、彼は秋子のことなど知らないし、例え知っ

ていたとしても、横に友人の佐菜がいればきっと魅力的な彼女のことを好きになるだろう。

 それは勿論、秋子の劣等感とコンプレックスからそう思っているからだからなのだが・・・。

「それに・・・・・・私なんかが、彼女を愛していいのかどうか」

 一瞬、躊躇いを見せたが、オルフは彼女にそう打ち明けた。

「そんなこと・・・・・・どうして、そんなことを言うんですか?」

 アキは言った。こんな考えは、オルフらしくないと思った。少なくとも、リンがその言葉を聞いたと

すれば、彼女は完全に否定するだろう。

責めるように言ったその言葉に、彼は苦笑いを浮かべてグラスを煽った。そして、何かを考え込

むように、しばらくグラスを見つめながら黙ってしまった。

 無言の空間の中に、時計の針の音だけがしばらく響いた。気まずい沈黙が続いたが、秋子は

彼の次の言葉を待った。

 オルフのグラスに残った氷が少し解けた頃、ようやく彼は口を開いた。

「・・・・・・私には、好きな人がいたんです」

 突然の告白に、秋子は文字通り目を丸くした。

「名前・・・・・・思い出せないんですけどね・・・。リンさんに・・・よく似ていたと思います」

 そこで言葉を切って、オルフはグラスに口を付けた。名前を覚えていないのに、どうして、リンさん

に似ているということを覚えているのだろうと、秋子は思った。

その答えはすぐにわかった。

「・・・・・・夢の中なのに、夢を見ることってありますよね?・・・時々ね、その彼女の夢を、ここで見

るんです。・・・・・・この前、ちょうど、アキさんを助けにスカッチャーの屋敷に行った日の前の夜にも。

リンさんによく似た女性が、私に微笑みかけてくれました」

 だが、そこまで言うと、唐突に彼の青い瞳が曇った。

「その時も・・・・・・私は、彼女を助けることが、できませんでした」

 その声は、深い・・・深い失意に満ちていた。それでアキは、オルフの先ほどの言葉の意味を理解

した。・・・・・・自信のなさそうに、彼女のことを愛していいのかと言った、彼の言葉を。


 でも。

アキは思う。誰かを愛することに、資格などいるのだろうか。

もっと・・・それは、簡単なことなのではないのか。・・・・・・少なくとも、オルフが考え、悩んでいるほ

ど、難しいことでは・・・。

オルフに掛ける言葉を探していると、彼はさらに続けた。

「力が、なんだというのでしょう。国を創造するだけの力が・・・なんだと・・・・・・」

 ――よく、わからなかった、

オルフがいったい何を言っているのか、その言葉の意味が。・・・遠慮がちに上を見上げれば、彼

の瞳の、その縁に、光るものがあった。

「強い力を持つことに・・・・・・愛する人を守ることさえできない力に、いったい何の意味がある・・・っっ!!」

 最後の方の言葉は、あまりにも切れ切れで、まるで、胸の奥にあったものを無理やり吐き出すかの

ような、そんな強い響きを含んでいた。

 ・・・おそらくその言葉は、アキにではなく、彼自身に対するもの。グラスを握るその右手が、微かに

震えていた。このように取り乱したオルフの姿を、彼女ははじめて見た。

普段は穏やかに、まるで柔らかく吹き抜けるそよ風のように振舞っているオルフ。その心中は、やは

り風のようにつかみどころがない。

それだけに、アキには彼の強い思いを感じた。・・・そして、彼が恐れているのだということを。

「違い・・・ますよ・・・・・・」

 アキは、必死に言葉を探した。

オルフの言っていることが、間違っていると彼女は感じた。だが、何故間違っているのか、その理由

がなかなか、言葉として出てこない。

 オルフと自分の考えの違いは何か・・・・・・。アキは考えた。

彼は、好きになったり、愛したりすることを恐れるあまり、壁を作ってしまっているのではないだろうか。

・・・そう、誰かを愛することに、資格など要らない。他ならぬ、彼自身の彼女に対する気持ちが大事

なのだ。

「守れることが、愛していることでは、ないんです・・・・・・。愛しているから、守りたいと思うんですよ

・・・きっと」

 アキは言った。この言葉が、きっとオルフに届くことを願いながら。


 ふと、頭の中に冬雄の姿が甦った。なぜなのかはわからない。

彼女が今も憎んでいる、兄。・・・だが、冬雄は、彼女のことをどう思っていたのだろうか。

 そして突然、フラッシュバックのようにあの時の光景が甦った。

トラックにはねられそうになった秋子の右手を引いて、その反動で自らその前に飛び出るようになっ

た兄の姿、そしてその後のことが―――


・・・・・・結果的に、彼は秋子のことを守った。・・・・・・それは、冬雄が、秋子のことを家族として、妹

として、愛していたからなのだろうか。・・・・・・秋子の気持ちは、それとはまるで正反対であったの

にもかかわらず。

「そう・・・なんでしょうか」

 戸惑うように、オルフはそう彼女に返した。・・・あるいは、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。

「きっと・・・・・・そうですよ」

 そして秋子もまた、自身に言い聞かせるように、そう言葉を返した。






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