第4部 銀砂の吹く街



1.

* * *

 月が変わって7月に入ってからも、秋子は例の夢を見ていた。

だが、秋子にとってあの夢は、もう苦痛にはなっていなかった。オルフィウスからことの

次第を聞かされてから、彼女は少しずつ、酒場の人々に心を開くようになった。リンとは

言うまでもなく、ユゥアやオルフと話をするのは、楽しいものだった。

 残念ながら、夢の中で何を話したのかは目を覚ましてしまえば忘れてしまうのだが、

何か新しい見方の意見を聞いたという驚きや嬉しさ、そして楽しいひとときを送れたとい

う満足感が、目覚めた後の秋子の頭に残っており、その日1日がとても晴れ晴れとした

気分に染まるのだ。

 そして今日は7月1日、週明けの月曜日だ。ベッドから起きた秋子は、学校へ行く支度

をしながらカレンダーを見た。

「あ、今日は7月か・・・」

 紫陽花の絵の6月のカレンダーを破ると、白い貝に海の絵が描かれた、夏模様の7月

のカレンダーに変わった。今週の日曜日は七夕だ。

 七夕・・・ということを思い出して、秋子は去年から具合の悪い愛美のことが気になった。

ふと、秋子は愛美との会話を思い出した。


「愛美ちゃんは、大きくなったら何になりたい?」

 満面の笑みを浮かべて、彼女がこう答えたのを、秋子は覚えている。

「私、お母さんみたいになりたい」

 それは、愛美のような小さな子供にとっては、ごく自然な答えなのかもしれない。

「お母さん、好きなんだ」

「うん、大好き。・・・・・・お姉ちゃんは、好きじゃないの?」

 その答えに、曖昧に答えたのを覚えている。

「え?・・・ううん、嫌いじゃないよ」

「じゃあ、お母さんみたいになるのね、愛美と同じ!」

 秋子は、やはり曖昧に笑っていた。何になりたいかなど、考えたくもなかったのだ。

こんな他愛ない会話をしていたのも、もう1年も前の話だ。

 今年の七夕は、愛美と楽しむことができるだろうか。

そう思うと同時に、罰当たりかもしれないが、愛美と立場を代わってあげられたらどん

なによいことだろうと、秋子は思ってしまった。おそらくその方が愛美も、愛美の両親も

喜ぶだろうし、自分にとってもありがたい。あるいは、自分の両親も・・・・・・。

 生きる価値のない自分が生きているよりも、愛美が生きていくということの方が遥か

に価値があるように、秋子には思えた。

 だがそれは到底叶うことのない夢であり、彼女にとっての理想である。理想とは掲げる

ものであって、近づくことができても叶うものではない。それを知っているからこそ、秋子

は現実を恨めしいと思い、そしてそこに近づくために自分はどうすればいいのかを思い

悩み、その答えがわからず、疲れてしまうのだ。

 それが、今の彼女の常の姿だった。

「アッコ〜、ご飯よ!」

 母親の声に、秋子は目覚まし時計を見た。7時30分。いつの間にか、30分近く考え

事をしていたらしい。まだ、顔も洗っていなかった。

「はーいっ」

 暗いことを考えるのは止めにして、秋子は上着を羽織いながら階段を駆け下りた。あ

の”夢”を思い出すと、彼女の気分は一気に晴れていった。



◇ ◇ ◇

 昼下がりの酒場は、妙な静けさに包まれている。

「あれ、ユゥアさん師匠は?」

 二階から生あくびを噛み殺しながら降りてきたのは、リンだった。相変わらずよく寝て

いるなと顔を上げたユゥアは、いつものカウンター奥の席で、デッサンをしている最中だ

った。

 どうやら今日は、グラスとボトルを描いているようだ。気を利かせたマスターが、普段は

見かけない洒落たデザインのグラスをいくつか奥から出してきていた。

「さぁな、俺は今日はまだ見てない。街でまた女の子と遊んでるん―――」

 言葉を半ばにして、ユゥアは鼻先を掠めた見覚えのある槍に、硬直する。・・・・・・い

つの間にか、リンは自分の槍を装備していたらしい。仁王立ちして、いかにも切れ味の

よさそうな刃を光らせながら、リンは楽しそうに微笑む。

「そんなことをしてたら、これでいっぱつガツンってやっちゃうんだから!」

 打倒師匠を宣言するリンの傍らでユゥアは、酒場にそんな物騒なものを持ってきてい

いのかと心のうちで思ったが、肝心のマスターはすでに奥へと退避してしまっていた。

・・・考えてみれば彼女は、不本意ではあるが以前ガツンと一発オルフィウスにかました

事が・・・その時は槍ではなく樽だったが・・・あった。だが、どうやら悪いことはすぐに忘

れてしまうものらしい。

 オルフの女好きな性格は、現実でもそうなのかどうかはわからないが、この界隈で

は有名なことであり、それを知っていて付き合う彼女も彼女ではある。しかしながらリン

のそういう性格をよく知っていながらも、未だに彼女と付き合っているオルフもオルフ

であった。要するに、二人ともお似合いのコンビなのである。

 ようやく槍を手元に戻した彼女の様子に、ユゥアも鉛筆を取り直した。

「・・・・・・そういえば、アキは?」

 ユゥアと一つ席を開けたカウンター席に着いたリンは、最近来た女のアルビノに話題

を変えた。年が同じくらいのせいか、二人は出会って間もないのにとても仲がよかっ

た。

「ん・・・今日はまだ見てないな。まだ寝てないんじゃないのか?」

 夢の中の時間と、現実での時間の流れはまったく相関していない。授業中での居

眠りを除けば、規則正しい睡眠を取っている秋子でも、夢の世界で目覚める時間は夜

のときもあれば、お昼時であったりと様々である。目覚める場所も時間もまちまちな

のだが、不思議なことに夢の中での記憶は繋がっており、夢の中で眠るまで自分が

何をしていたのかということは思い出すことができるのだ。それは、現実の世界で起

床するときと、なんら変わりはない。

 夢の中での感覚は、見る夢にも、その夢を見る人にも因るが、この酒場にいるユゥ

アたち、そして秋子は、この夢において五感のすべてを感じることができた。アルビ

ノ狩りに遭った時の痛み、デルタを助けた時の怒り、酒場で食べたマスターのランチ

の美味しさ・・・・・・すべてを、はっきりと感じることができる。この世界と現実の違いは

どこにあるのか。ユゥアたちの考える”神”が、本当にこの世界にいるのだとしたら、

”神”は何故、このような夢を作ったのだろう。

ユゥアたちがこの夢を見続けるのは、それを知るためでもあった。

 静かな酒場の雰囲気に退屈したリンは、マスターが出してくれたブランチを口に

運びながら、再びデッサンに没頭するユゥアに話しかけた。

「ね、ユゥアさん。アキとデルタさんって、どう思います?」

「―――は?」

 あまりといえばあまりにもいきなりなリンの言葉に、彼は間の抜けた声を上げてい

た。

「だーかーらー、あの二人。どういう関係なのかな〜って。ユゥアさん、どう思いま

す?」

 年頃の女の話題はこれしかないのかと思いながら、ユゥアはちょっと考えてみる。


―――アキはいいとしても、だいたいなんでデルタなんだ。


 憮然としたツッコミが、彼の胸のうちに響き渡る。確かに、無愛想で無口なデルタ

に好意を抱く女など珍しいし、何より”恋愛”という言葉の持つ若々しく、瑞々しい

響きやイメージが、デルタのもつ雰囲気にそぐわなかった。

「いくら相棒に似合うのが自分だからって、よりによってデルタとくっつけようとしな

くたっていいだろうによ」

「え〜。でも、ユゥアさんにはもったいないでしょ?」

「俺に振るなって」

 迷惑そうに、ユゥアは左手を振った。だいたい、俺には彼女がいるっつーの、と彼

は心のうちでリンにそう返した。・・・無論、彼女には聞こえるはずもないが。

「・・・あ、ユゥアさんもしかして妬いてる?」

「しねーよ!ていうか他にも男はいるだろうが?なんでよりによってデルタなんだ」

 鉛筆を動かすことも忘れ、猛反発をするユゥアを傍から見ると、どうしても妬いてい

るようにしか見えなかったのだが、そのことを敢えてリンは・・・そしてマスターも

言わなかった。

 ユゥアに訊かれて、彼女は少し考えるような仕草をしてゆっくりと自分の考えを話

した。

「うん・・・だってね。アキって、なんかデルタさんのことを避けてるみたいなんだもん。

・・・・・・あ、嫌いっていうふうには見えないんだけど。なんか、そういう避け方じゃ

なくて、わざと近づこうとしてないような・・・・・・うまくいえないんだけど、まるで、昔

の恋人に出会ったみたいな感じなの」

「そりゃあ、これまでのことがあるんだから、話しかけにくいのは当たり前だろ?デル

タも、あーいう性格だからな。恋人、だなんて、大げさ過ぎねぇか?」

「うーん。そうかなぁ・・・」

 納得できないといったふうに、リンは首を傾げつつ唸った。

あまりこういった類の話題には深入りしたくないと、ユゥアは再び鉛筆を動かし始める。

 喋り過ぎていたせいか、マスターの用意してくれたグラスの氷の形がいつの間にか

変わってしまっていた。

「決めた!」

 彼女がそう叫んだのは、ブランチを食べ終えてからのことだった。あまりにも唐突だっ

たため、ユゥアは思わずぎくりとそちらを振り返った。

「・・・・・・何を?」

「考えててもわかんない時は、直接訊けばいいのよね」

「・・・おい・・・・・・」

 リンから質問攻めに遭う秋子のことを、彼は哀れに思った。彼女は、思いついたことは

すぐに行動に移すタイプだ。だからこそ、師匠を殴るために槍を拵えてしまったのだが・・・。

「早くアキ、来ないかな〜」

 食後のハーブティーを飲む彼女の声は、妙に弾んでいた。






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