| 8. * * * 「来栖さん、大丈夫ですか?」 目の前が、ぼんやりと白くかすんでいた。何度か瞬きをして、目の前にあるのが白いベ ッドだということに気がついて、ここが病院であることを秋子は思い出していた。 今日も、学校帰りに彼女は兄の見舞いに来ていた。 「毎日毎日じゃあ、疲れちゃうでしょう?今日はそろそろ帰った方がいいわ」 声をかけて秋子を起こしてくれたのは、いつもの看護師さんだった。置き時計を見て みれば、時刻は6時半を指していた。 「学校も試験前だから、疲れてるんじゃない?早く家で体を休めた方がいいわ」 「あ・・・・・・はい」 秋子は手に持っていた参考書を鞄に入れると、隣のベッドで眠る愛美に別れの言葉 を掛けた。・・・そう、実は彼女が長い時間病院にいるのは、愛美のせいでもあった。 頭上で、笹飾りがさわさわと冷房の風に揺れる音が聞こえる。 「そういえば、もうすぐ七夕ね。愛美ちゃんもきっと楽しみにしてるはずだわ」 秋子は、愛美と七夕祭りをするために、彼女が目を覚ますのをずっと待っているのだ った。秋子が冬雄の見舞いに来るようになってから、愛美は彼女と遊ぶのを楽しみに していた。特に、ひな祭りや七夕、十五夜の日がお気に入りで、とてもはしゃいでいた ために看護師さんから注意を受けたこともあったくらいだった。 けれどもそのイベントは、去年の七夕以降、なくなっていた。 ・・・・・・正確には、愛美の病状が悪化した時から。 「それじゃあ、兄と愛美ちゃんをよろしくお願いします」 看護師にそう挨拶をして、秋子は病室を出て行った。 「はい、お大事に」 彼女の背を見送った看護師は、ふと、作業の手を止めて愛美のことを見つめた。 「・・・・・・愛美ちゃん、しっかりね」 医者から告げられた余命は、あと1ヶ月。愛美の両親がそのことを知らされたのは、 先月初めのことだった。 彼女の両親は共働きで、夜は9時を過ぎたころに見舞いに来ている。母親の方は幾分 時間があるのか、午前中に様子を見に病室を訪ね、夜は父親とともに見舞いに来ていた。 ここ数ヶ月は、毎日そうである。顔を合わせるときは、いつも彼らは笑顔であったが、そ れが返って、やつれている彼らの表情を、見ていて痛々しいものにしていた。 もう、愛美の命の炎はいつ消えてもおかしくはない。けれども、秋子はそのことをまだ 知らないままだ。 話した方がいいのだろうか。話すべきなのだろうか。・・・彼女は迷っていた。 ・・・・・・愛美は、兄を失った彼女の心の支えでもあるのだろう。その証拠に、秋子は一 年前から、元気がなくなっている。見るたびに、やつれて見えるのは気のせいではない だろう。 だが、今の秋子に話したら・・・・・・それはそれで、秋子をさらに傷つけてしまう。 秋子を病室で見かけるたびに、そのことで頭がいっぱいになった。 結局今回も、彼女は何も言えなかった。 ただ、愛美の回復を祈るだけしか、いまの彼女にはできなかった。 * * * 秋子の隣を歩いている彼女は、名前をリンと言った。リン=アルカレイン。 聞いてみると、二人とも同じくらいの年だったので、彼女と秋子はすぐに仲良くなった。 他の3人はともかく、リンのことは信じることができるようになっていた。 「ねえ、アキ!今日は街を案内してあげるね!」 早めのお昼ご飯を済ませた二人は、バルバロイの街に出かけることにしたのだった。 昼の街は、静寂に包まれた夜とは違い活気に溢れていた。大通りを歩いている人の数 は、ラルカントスの街を歩く人よりもずっと多く、店もとても賑わっていた。空は、相変わ らずの曇天であったが、秋子には前よりもそれがずっと明るく感じられた。 「あそこがね、ユゥアさんのアトリエなのよ」 リンが指差す方を見てみれば、そこには白い小さな家が建っていた。壁にかかった看 板には、「アトリエ・シリウス」と描いてある。周りにある建物と色彩が異なるために、行 き交う人々の目に止まっていた。 二人がアトリエに歩みを進めていたちょうどその時、一人の女性がドアを開けて出て来 た。桃色の、薄い生地のドレスを身に纏い、ブロンドのウェーブした髪を優雅に風になび かせている。 ―――どこかの貴族だろうか。 ふと、その女性が二人の方を振り返った。こちらを見たのは、ほんの一瞬のことだった。 視線を元に戻したその女性は、何事もなかったようそのままにどこかへ歩いていってしま った。だが秋子は、確かにその女性と視線が交わったことを感じていた。 その、紫の双眸を。 「綺麗な人、どなたかしら?」 二人がアトリエのドアを叩く頃には、もうその女性の姿はどこにも見られなかった。 アトリエの中に入ると、ユゥアが奥で絵を描いているのが見えた。余程興味深々なのだ ろう、中に入るなり、リンは彼に尋ねた。 「今の人、いったい誰?」 「知らねぇ。この前来たばかりだ」 面倒くさそうにそう答えるユゥアを、リンはからかってみせる。 「・・・もしかして、ユゥアさんの?」 「んなわけねーだろうが!」 絵を描く邪魔をされたくないためか、それともムキになったのか、ユゥアはリンの言葉に すかさず叫んだ。 「ユゥアさんも隅に置けないですね〜」 「ばーか!俺より、相棒の方を見張ってた方がいいんじゃないのか?」 「だーいじょうぶですよ。そんなことがないように、この前槍を作ってもらったんじゃな いの」 彼女の自信に満ちたその言葉に、思わずユゥアは絵筆の動きを止める。 秋子は知る由も無いが、先日、リンは鍛冶屋に頼んで大きな赤い槍を作ってもらって いた。今の口ぶりだと、どうやらそれは相棒を殴るために用意されたらしい。 相棒が槍を持ったリンに追い回される光景を想像して、真相に気が付いたユゥアは彼の 無事を祈っていた・・・のだが、勿論そのことに気が付くものは誰もいない。 はしゃぐリンの隣で、秋子は何かが引っかかるような気がして、考え込んでいた。 「・・・あの人と、どこかで会ったような気がする」 秋子の呟きに、2人が振り返った。 「あの人、知ってるの?」 思い出そうとしてみたが、まったく思い出せない。夢の中での記憶は、現実のそれと 比べてかなり曖昧なものだ。思い出そうとしても、さまざまな光景が空回りするだけ であった。 「どこで会った?ラルカントスか?それとも、スカの屋敷か?」 「ごめんなさい。・・・わからないわ」 「そっか・・・。まあ、いつか思い出すだろ」 さしたる興味も示さず、ユゥアは再びキャンバスに向かって集中していた。 今度はいったい何を描いているのかと、興味津々に覗き込むリンを左手を振って下 がらせながら、オルフなら少し前に街へ行ったとユゥアは言った。 「え?師匠が街へ?」 「例の用事があるんだってさ。ちょうどいいから、アキも連れて行ったらどうだ?」 「・・・え?私?」 絵を描いているのを人に見られるというのは、どうにも落ち着かないのだろう。アトリエ から出て行かせたいのか、ユゥアはオルフの所在を話題として振ったようだった。 「・・・そうね。じゃあ、アキ、付いてきて」 「え・・・うん」 ドアの開閉にモビールに付いたアルミパイプが涼しげな音を立てる。アトリエの中を振り 返った秋子には、ため息をついたユゥアが再び絵を描き始める姿が見えた。 |