6.

「なんだ、今頃戻られていたんですか」

 秋子は、いったいどうしたのかと、オルフの後ろからカウンターの様子を覗き見た。

同時に、空になったグラスを眺めていたデルタは、聞きなれた朗らかな声を聞いて視

線を戸口に向けた。

 藍と橙の双眸が、虚空で交わる。

「・・・・・・アキ」

 最初に口を開いたのは、デルタのほうだった。その声に、驚きの色はない。

「私は、・・・外していたほうがよさそうですね」

 いつものように微笑んで、彼は2階へと上がっていった。

 ほんの一瞬、冷たい空気が二人の間を流れる。そして今度は、秋子が口を開いた。

「外へ、出て」

「・・・・・・わかった」

 警戒する様子もなく、彼は秋子の後をついていった。


 秋子が彼を連れて行ったのは、”店”に行く時に見つけた空き地である。ここならば、誰

に見られることもないだろう。

「・・・探していた」

「私も、貴女を探していたわ」

 彼女の言葉には、憤りの色があらわだった。それも、無理はない。彼女は、デルタによ

って仲介屋、そしてスカッチャーの手に渡り、苦しい思いをしてこれまでを過ごしてきた

のだから。

 秋子が、懐から隠していたナイフを取り出し、鞘を抜いて構えた。

―――この時を、どれほど待ち侘びていたことか。



†  †  †

 デルタは何も言わない。殺されても、仕方のないことだろうし、都合のいいことに、今の

自分は死を望んでいるのだから。

 秋子に殺されるのならば、本望かもしれない。いや、それ以外に、この世界から消えるた

めの方法が、果たしてあるだろうか。



 秋子が、地を蹴った。

逃げようともしないデルタとの距離は、あっという間に縮まった。

だがあろうことか、彼は秋子の腕をナイフが刺さるすんでのところで押さえていた。無意

識に、彼は防御の体勢をとってしまっていたのだ。

そのまま二人は膠着する。



 秋子の力は、思ったよりも強かった。アルビノであることも影響しているのかもしれない。

だが、もう少しばかり力を込めてやれば、デルタは簡単に彼女にナイフを捨てさせること

が出来てしまう・・・・・・二人の間には、天と地ほどの力の差があった。

 デルタは、秋子の顔を見つめた。

 眉間にしわがより、悔しさのためか、はたまた込めた力のためか、奥歯を噛みしめた顎が、

細かく震えている。オレンジ色の瞳は、暗闇に灯るランプの明かりのように、爛々と輝いて

、デルタを正面から見据えていた。

―――なぜ、手の力を緩められないのだろう

そう気がついてもなお、彼は彼女の腕を放すことが出来ず戸惑いを隠せなかった。



* * *

一方の秋子も、予想以上に強いデルタの力に戸惑っていた。

もっとも、秋子の方は未だデルタのことを女だと勘違いしているのだから仕方のないことで

はある。

―――隙を伺うしかない。

膠着状態のなか、秋子は懸命に意識を集中した。



†  †  †

―――だが。

傍ら、死の危機が近くにあるのだが、ふと、デルタは思う。

こんなにも激しい秋子の顔を、かつて自分は見たことが合っただろうか。


 それすらも忘れてしまったのだ。


3年という月日は、確実に自分と秋子の間に横たわっている。

―――思い出さなければ、ならないのか。

 忘れたいと、願った日々を。



* * *

 ふと、デルタの力が緩んだのを、秋子は見逃さなかった。

デルタの手を交わして、肩を入れるような形で彼女体当たりをしようと動いた。考え事を

していた彼は、秋子のその動作に一瞬対応するのが遅れてしまった。

左肩を、ナイフの切っ先が狙っていた。

「―――アッコ」

 微かにデルタが呟いた声のどこに反応したのか、秋子の勢いが衰えた。

躊躇ったのは、一瞬。


 だが、二人の争いに邪魔が入ったのは、まさにその時であった。

唐突にデルタが崩れ落ちて、秋子はその場で棒立ちになった。


 自分は何もしていない。いったい、何が起こったのだろう・・・。

「―――まあ、その辺りで許していただけないでしょうか」

 背後から聞こえた緊張感に欠ける声は、先ほど秋子を連れ出した、オルフィウスのもの

であった。



 カーテン越しに弱く差し込む朝日が、夢の終わりを告げた。まだ、起きるには早い。わかっ

てはいたが、秋子はゆっくりと身を起こした。


 頭が妙にはっきりとしていた。まるで、試験の日の朝のように。

暑かったためか、毛布がベッドの端に丸まっている。広げて掛け直すと、その姿勢のま

ま秋子は先ほどの夢をぼんやりと思い出していた。



「申し訳ありません、心配で、後を付けていました」

 あの後、デルタを酒場の二階の一室に運んだオルフは落ち着くなり、そう秋子に詫びた。

「貴女がデルタさんを恨む気持ちも、無理のないことでしょうから・・・・・・こうなるのではな

いかと思っていたんです」

 言ってオルフィウスは、彼女を連れ出したときに、やはり事情を説明しておくべきだったと

再度内心で反省した。

「・・・なんで、私が恨んでいるってわかるの?」

 秋子は、なぜオルフが自分のことを知っているのか疑問に思った。・・・そういえば、彼は

自分がデルタを探していることも知っていたようだ。酒場に戻るときにオルフの口からデル

タの名前が出たことを、いまさらながら彼女は思い出した。

「・・・・・・少し口が滑りましたね」

 オルフは困ったように頭を軽くかきながら、そう言った。

「まあ、今日はこの辺りで休みましょう。貴女も、お疲れでしょうから・・・・・・」

 そう言われて、彼女は屋敷から脱出してからずっと休んでいないことに気が付いた。

この世界で眠れば、現実で目を覚ます。現実は終わることはないが、この世界に終わりは、

来るのだろうか。

 どうやら気を失っているらしいデルタの様子を伺いながら、彼は秋子に声を掛ける。

「隣の部屋を使って下さい。私はここを使いますから」

 オルフに促されて、秋子はドアへと向かった。そこでもう一度、ベッドに寝かされたデルタの

ことを見た。その瞬間、彼女の脳裏に先ほどの戦いの一場面が甦った。

『―――アッコ』


 そこで、夢が終わった。

そのデルタの台詞だけが、頭の中に鮮明に残っている。

 妙な緊張感を覚えながら、秋子は起きて登校の支度を始めた。そして着替えが終わり、筆

記用具と携帯を鞄に入れてとき、一階から母親の声が聞こえた。

「・・・アッコ、ご飯よ〜」






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