8.

* * *

 外はいつの間にか、雨が降り始めていた。

ベッドから起き上がった秋子は、自分が制服のままであったことを思い出した。雨雲の

せいか、部屋の中は暗い。机の上の目覚まし時計を見ると、7時を過ぎていた。カーテ

ンをしめて電気をつけると、蛍光灯の明るさに目がくらんだ。

着替えてしまおうと、ネクタイを外したところで母親がドアをノックした。

「アッコ〜?いつ帰ってたの?帰ったら、ただいまくらい言いなさい」

 言いたくなくて言わなかったわけじゃないのにな・・・と、心の中で返事をする秋子。

「もうすぐご飯だから、早く降りてきなさい」

 親は、いつも子に対して一方的だ。顔が見えないこともあるが、ドアの向こうで秋子が

どんな気持でいるのか、わかっていない・・・いや、わかることができないと言うべきな

のだろうか。彼女は、無意識にこう返していた。

「今日は、要らない」

 とてもではないが、喧嘩の後の両親がいるテーブルで、いっしょにご飯を食べる気など

しなかった。きっと、両親の矛先は自分に向くのだろうから・・・。

「どうしたの?具合でも悪いの?」

 悪いと言えば、気分が最高に悪かったが、そんなことは言えなかった。正直に答えたくも

なかった。

「ううん、京ちゃんと食べてきたの」

「ちゃんとしたもの食べなきゃだめよ。冷蔵庫の中にアッコの分入れておくから、お腹が空

いたら食べるのよ」

 適当にごまかして、母親をやり過ごす秋子。本当に、窓の外の曇天のように気分は暗く、

憂鬱だ。

 3年前の交通事故が起きてから、家の中は壊れ続けている。意見の不一致、生活のすれ

違い、先の見えない将来・・・そんな一切が積もった結果だ。・・・いや、もしかすると、もっと

前からなのかもしれない。

 医者として将来を期待されていた兄の冬雄は、3年経った今も意識がまだ戻らない。あの

事故さえなければ、彼は今ごろ大学1年生・・・。医者の卵として、順調な一歩を歩んでいた

はずだ。

 母は、近所のスーパーのレジのパートを週に4日入れている。開店時から夜まで、一日

働き詰めだ。もともとは、冬雄の大学進学のために始めた仕事だったが、その稼ぎは今では

治療費の方に回っている。そして家に帰ってからは、夕食を用意しなければならない。始め

た当時は、母が作っていたが、最近ではほとんど、タイムサービスで割引されたスーパー

のお惣菜が食卓に並ぶようになった。それが嫌になったからというわけではないが、秋子

はこのところ、外で食事を済ますことが多くなっていた。

 父の方はというと、リストラの波に巻き込まれはしなかったものの、ボーナスは消滅寸前、

退職金すらもらえるかどうかわからない状態だ。そしてまだ先のことではあるが、どうやら

退職後も年金でのんびりとした老後生活を遅れそうにもない。定年前に退職したとしても、

不景気で働き口の少ないこの時代、再就職は難しいだろう。あとは、秋子だけが頼りとな

る。

 秋子は、まだこの状況を十分に飲み込めていない。学校にも難なく通えている彼女は、実

はとても恵まれているのだ。そして彼女は今、高校1年生。これからの将来について考え

なければならない、いわゆる人生の岐路に立たされていた。だが・・・・・・

 彼女には、将来の夢がない。秋子には、冬雄と違って、将来の夢が・・・目標がなかった。

いや、正確には、考える機会を逸してきたのだ。なるようになるだろうと思いながら、無意識

のうちに将来のことを考えないようにしていた。原因は、3年前の事故・・・その根本のと

ころにある。

「私って、なんでいるのかな・・・?」

 その問いかけに、答えてくれる者はいない。

ただ、視線の先の鏡の向こうで、いつもと変わらぬ表情の自分が無感動に見つめ返して

いるだけだった。



◇ ◇ ◇

 普段オルフたちが寝泊りをしている酒場から少し離れた場所に、一軒の小さな家がある。

外に掛かっている看板には、装飾の施された文字でこう書かれてある。

―――アトリエ・シリウス。

・・・他でもない、バルバロイの村で知られた、絵描きユゥアのアトリエだ。

一点の汚れもない白一色の壁面が、陽光を眩しく照り返している。空け放たれた窓には、

やはり白いレースのカーテンが視界を遮っているが、時折吹く風に、まるで道行く人々に

手招きしているかのようにやんわりと揺れていた。

 そんな誘いに応えるかのように、ふらりと立ち寄る人影が一つあった。 天井から下がる

モビールについた細いアルミパイプが、ドアの開閉に涼しげな音を奏でた。それで、奥に

いたユゥアは客の来訪を知った。

 客は、初めて見る顔だった。すらりとした四肢に薄地のドレス。ポニーテールにしたブロン

ドの髪が腰まで届いているのを見て、女性だとわかった。

ユゥアに背を向けたまま、客は入り口のところに飾られた絵に見入っている。

 絵筆を動かす手を止めて、ユゥアはしばらくその女性のことを観察していた。床まで届く

ほどの薄いピンク色のロングドレスが、窓からの風に緩やかに舞う。その装いは、バルバ

ロイにいる人々とは一線を画している。また、バルバロイの街で長い時を過ごしている彼

ではあったが、ポニーテールをしたブロンドの女性など、これまで通りや酒場で見かけた

ことがなかった。・・・とすると、新しくこの世界に来た住人か、どこかの貴族なのだろう。

 そういえば、入り口付近には静物画を飾っていたはずだと、ぼんやり考えていると、人影

がこちらを振り返った。

ユゥアの視線は、彼女の双眸に引き付けられた。

―――紫の両眼。

「素敵な、作品ですね」

 掛けられた言葉は、とても軽やかだった。オルフィウスがいたら大変なことになりそうだ

と、傍らで思いながら、彼はお礼を述べる。

「・・・ずっとこちらで、絵を?」

「ええ。でも、仕事があるときは、さすがに無理ですが」

「お仕事・・・ですか?」

 絵を描く以外にも、仕事をしているのですか、と訊きたそうな表情であった。

「傭兵みたいなものですよ。ここでの働き口は、それくらいしかありませんから」

 そのユゥアの答えに、女性は微笑をもらした。

「・・・ふふ、面白い方ですね。・・・・・・また、遊びに来てもいいかしら?」

 いつでもどうぞと、にこやかに返すユゥアに対し、彼女もまた微笑み返す。

「人を待たせていますので、今日のところはこれで」

 優雅に一礼をしてドレスを翻し、彼女はアトリエを後にする。再び一人になったアトリエ

で、ユゥアは違和感を感じていた。

―――あの、紫色の瞳・・・。

自分と同じ、紫色の瞳。決してこの界隈でよく見る色ではない。そしてそれは、自然な

色には見えなかった。

「・・・・・・まさか、そんな・・・」

 彼の頭の中で、一つの可能性が現れ、そしてすぐに自ら否定した。

「そんな、ことは・・・」

 あるはずがない。ありえない。

「どんなことです?」

 不意に背後から声を掛けられて、ユゥアは驚きのあまりその場を飛び退いた。

「びっくりさせるなよ、相棒」

 声を掛けてきたのがオルフィウスだと知り、ユゥアは彼を一瞬睨んだ。その様子から、

本当に彼が自分に気がついてなかったことを知ったのか、オルフは素直に詫びた。

「すみません。てっきり気がついていたものと・・・・・・」

「いや、ちょっと考え事をしてただけだ。気にすんな」

「はい・・・。そういえば、いま女性がここから出てきたのを見かけたのですが、ユゥアさん

のお知り合いですか?」

 目ざといと言うのかなんというのか・・・。やはり、オルフは先ほどの女性が出て行くの

を見て、ユゥアのアトリエを訪ねてきたのだ。肩を落として彼は答える。

「いや、初めての客だ。また来るって言ってたぜ」

「どちらの方ですか?」

「詳しいことはなんにも・・・。すぐに行っちまったしな。・・・そーいや名前も聞いてねぇや」

 そういえば、向こうもこちらの名前を訊かなかったなと、今になって気がつくユゥア。この

ことも、彼に違和感を感じさせたのかもしれない。

「はあ、そうですか・・・。今度見えた時には、すぐに連絡をくださいね」

 心底残念そうな表情のオルフ。やはり、彼があの場にいなくてよかったと、内心ほっと胸

をなでおろしたユゥアだった。






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