16.

潮の匂いに、海鳥の声。

シェルファーにとって、船に乗ることもまた、初めて経験することであった。

時折吹く強い潮風に、飛ばされそうになる帽子を両手で押さえながら、彼女は過ぎ行くメ

ーレンの街を見送っていた。

「でも・・・これでよかったんですか?レイドさん」

小さく見える港には、レイドの家族たちの姿はない。

「・・・・・・いいんだ。」

朝、3人は何も言わずに、レイドの家を出て行った。・・・そう、何も言わずに。

別に、別れが辛かったためではないだろう。レイドはこれまでずっと家族の元を離れていた

わけだし、今の彼の返事からも、そういった感情は見出せなかった。

考えられることといえば・・・家族に、迷惑を掛けないためだろう。

王都ラムド。メーレンからは船でたったの二日しかかからない。それだけの距離だからこそ

、レイドは平気なのかもしれない。そう、シェルファーは思いたかった。

「・・・どうしたんだい?シエル。」

いつもの明るい口調でそう話しかけられ、彼女は戸惑った。

「なんでもないですよ、レイドさん。・・・ところで、ラムドに着くのは明後日になるんですよね?」

「うん・・・。それまではずっと船の上だから、ちょっと疲れるかもしれないね。シエルは部屋で

休んでいたほうがいいんじゃないか?俺は隣の部屋に行くから、なにかあったらいつでも来

ていいよ。」

「いえ、私は大丈夫です。でも・・・」

そう言って彼女は、先ほどから壁に寄りかかって目を閉じている神官に目をやった。

「・・・・・・ヴェレヌさん?」

返事はすぐには返ってこなかった。

再びシェルファーに声を掛けられて、彼はそちらを振り向いた。

「ん・・・・・・なんだ?」

「ヴェレヌさん、大丈夫ですか?なんだか顔色が悪いみたいですけれど・・・」

「船酔いでもしたのか?」

「・・・・・・いや。」

彼の口調からは、無理をしているようには聞こえなかったが、なんとなく二人は彼が疲弊して

いるように見えた。

「私の部屋が空いていますから、そこで休んでください。ヴェレヌさん。」

「2日といっても、長いからね。俺もそうしたほうがいいと思う。」

ヴェレヌは、無表情に二人を見つめ、そして視線をそらして言った。

「何かあったら、すぐに呼べ。」

ほかに何を言うでもなく、彼はそう言って部屋を出て行った。

その返事を聞いて、レイドもシェルファーナも、ほっとしたのだった。



「・・・・・・久しぶりだな、人に心配されるのは。」

別室に入り、ドアに鍵を掛けた彼はそう、一人呟いた。

『―――あいつに初めて会った時もそうだったな。』



彼は彼女を見ていた。

彼女もまた彼を見ていた。


「・・・貴方が、ヴェレヌ。」

無表情に、彼は彼女を見つめ返す。

「・・・大丈夫?」


・・・何もしゃべらなかった彼を、彼女はいきなり抱きしめた。

「ごめんなさい。でも、私たちには貴方が必要なの。」

「・・・・・・わかっている。」

ヴェレヌがサイに返した言葉は、その一言だけ。それでも、彼女には十分だった。


遥か遠い昔の記憶。忘れかけていた思い。

ヴェレヌはまた、それを思い出していた。

「私は、何のためにここにいる・・・・・・」

生きることの虚しさが、再び彼の心を覆い始めていた。



「人って、どうして地面から離れられないんでしょうね?」

「うん・・・?」

突然の彼女の言葉に、レイドは見ていた地図から顔を上げた。神官を見送って、二人は部屋

に戻ってくつろいでいた。

「鳥たちはあんなに自由に飛んでいるのに、人間は地面に縛られていて・・・なんだか自由じ

ゃないですよね?」

「うーん・・・そうだね。でも、空を飛べる魔法っていうのはあるみたいだよ。前に、ヘムンブル

クの図書館で読んだ本にあったんだけど。」

「え?そうなんですか?」

「真偽のほどはわからないけどね。」

そう言って、彼は手招きをしてシェルファーを呼んだ。

テーブルの上には、メーレンからラムドにかけて描かれた地図が広げられており、その四隅

にはカップが重しとして乗せてある。

左に描かれた大陸の端を彼は指差した。

「ここが、さっき俺たちが出てきたメーレンの港。これからこの船は、こうやってラムドに向かう

んだ。」

彼の指は山の稜線を描くようにカーブして、ラムドの左端で動きを止めた。それを目で追いな

がら、彼女はなぜこの船がまっすぐラムドに向かっていないのか、疑問に感じた。

「それはね、このあたりの海流のせいなんだ。」

「海流・・・?」

聞きなれない言葉に、彼女は眉をひそめた。

「潮の流れ。ラムドとメーレンの間の海は、潮の流れが複雑だから、まっすぐ進むことができな

いんだ。渦もあるしね。」

「そうなんですか・・・」

「だから、こうやって進んでいく。遠回りだけど、安全には代えられないからね。」

軽く伸びをしながら、彼は言った。

「地図を見るたびに思うんだ。」

翡翠色の瞳は、地図ではなく、遥か遠くを見ているように彼女には見えた。

「空を飛べたら、どんなにいいだろうってね。・・・でも、ディクリウス教には賛同できなかった。」

ディクリウス教は、空を自由に行けるものたちを崇拝することで、自らの心の束縛が解け自由

に生きること ができるようになるという教理の宗教で、聖ディヴァイン教についで最も多くの人

間が信仰している。ヘムンブルクの王族たちは主に聖ディヴァイン教を信仰としていたが、いつ

も部屋の中で過ごしていたシェルファーにとっては、ディクリウス教こそが自分の求めるものだ

と思っていた。

「・・・どうして、なんですか?」

「その答えは、君が一番よく知っているんじゃないかい?」

「・・・・・・え?」

レイドは地図を丸めながら、困惑する彼女に向かって微笑んで言った。

「翼なんかなくても、・・・空を飛べなくても、人は自由になれるんだよ。」






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