| 終章 銀の旋律 7月7日。 今日は七夕だった。七夕と言えばいつもは曇り空だが、奇跡の続きであるかのように、今 日は朝から晴れていた。 ――512号室 見慣れたプレートを横目に、秋子は車椅子を押す。けれども、秋子の気持ちは今朝よりも 沈んでいた。喜ぶべきことと、悲しむべきことが同時にやってくると、どうしても悲しい思い の方が、強く胸の中に押し寄せてきてしまうのだ。 「あんまり、長くいないでね。夜は迷惑になるし、冬雄もまだ起きたばかりだから」 そう、冬雄が目を覚ました。・・・・・・3年ぶりに。 その兄を乗せて―― 「分かってる・・・・・・」 静かな声でそう答えて、秋子は車椅子を再び押す。 そうして車椅子を押して、エレベーターに乗り、目当ての病院の屋上にたどり着いた。 自動ドアの向こうには、雲のない夜空と、淡く全天を縦断する天の川が見えた。その光景 に、車椅子の主が感嘆の声を上げた。 「七夕に晴れるなんて、珍しいな」 「・・・・・・うん、そうだね」 答えた声が、寂しげに聞こえてしまうのも、仕方のないことだった。秋子は、兄の乗った 車椅子を押して、もう少し見晴らしのよい所へと移動した。 車椅子の動きは、秋子が思っていたよりも軽い。それは、3年という長い年月が兄の中 で確かに経過していたことを、示してもいた。おもむろに、冬雄が口を開いた。 「・・・彼女は、残念だったな。・・・・・ずっと、見舞いに来ていたんだって?」 おそらく、目を覚ました冬雄に、看護士の人が話したのだろう。彼は、自分と同じ時期に 入院して過ごしていた愛美のことを知らない。 冬雄は秋子のことを慰めた。 秋子と母、春恵が病室に着いた時には、既に愛美はこの世にはいなかったのだ。 泣き崩れる愛美の母親の姿が、今も秋子の頭から離れない。 「うん・・・・・・ずっと、冬兄と同じ病室だったから」 としにい(冬兄)・・・・・・それは秋子にとっても、冬雄にとっても久しぶりに聞く呼び名だっ た。他でもない、秋子が付けた冬雄のあだ名である。 「けど・・・どうして俺は目を覚ましたんだろうな」 ふと、漏らした兄の言葉を聞いて、秋子の脳裏に夢の中で誰かが言った言葉が蘇った。 『礼を言う。生かしてくれて、有難う』 ・・・・・・自分はずっと、兄のことも生きていて欲しいと思っていたのかもしれない。 本当のところはどうなのか、秋子には分からなかった。だが・・・・・・ きっと、あの夢を見なければ、自分ははっきりと否定したことだろう。それだけ、秋子が 前に進んだということなのかもしれない。 見上げれば、空を流れる天の川が、見事だった。こんなにも、晴れた空の天の川は綺麗 なものなのか。 秋子は、いつか愛美に話して聞かせた織り姫星と彦星の伝説を思い出した。自分と兄 とは、3年ぶりの再会となるわけだが、1年ごとに再会できる彼らよりも、その喜びは薄いか もしれない。 だが・・・・・・大切なのは、そういうことではないのだ。 「お兄ちゃん・・・」 秋子は、そっと言った。聞こえていなくてもいいと思っていたが、兄はちゃんと彼女に頷 いた。 言わなければならなかった。・・・この3年間、ずっと言えなかった・・・・・・そして、今この 瞬間も言う決心がつかないその一言を。 「・・・・・・なんだ?」 ・・・おそらく促されなければ、彼女は言えなかったに違いない。秋子の口から、言葉が ひとりでに飛び出した。 「ありがとう・・・ね」 長かった。 このたったの一言を言うために、どれほど自分は悩み続けたのだろう。いや、それよりも、 ずっと前から、自分は悩み続けていたのだ。秋子は思う。 冬雄は、しばらく秋子に背を向けたまま、身動きしなかった・・・・・・できなかった。 あの時、自分が妹の手を引いたのは、彼女を助けたかったからなのか、未だに自分でもわ からなかったのだ。もしかすると、ただの偶然だったのかもしれない。 ・・・・・・いや、偶然でもいいのだ。 冬雄も、小さく呟いた。 「・・・・・・お前もな」 「うん・・・」 2人とも、ほぼ同時に夜空を振り仰いだ。すると、先ほどよりも星の流れが、目に眩しく 映る。秋子は思わず瞬きを繰り返すと、光がそのまま滑り落ちて、もとの星々の輝きとなっ た。 出し抜けに、兄が言う。 「・・・雨でも降ってきたのか?」 「気のせいでしょ。こんなに晴れてるのに」 早口に、そう秋子は言った。 秋子の心の支えとなっていた、愛美はいない。だが、もう彼女は、恐れや不安を感じてい なかった。 大丈夫だろう。なぜなら、2人は少しずつ、互いを理解しようとし始めているのだから。 気にする様子もなく、冬雄は呟いた。 「そうだな・・・・・・」 それぞれが、たった1人の・・・・・・掛け替えのない、兄妹なのだから。 「愛美ちゃんにも、見せたかったな・・・」 「ああ・・・」 秋子は気がついている。大切なものを失いたくないという、強い思いが内にあるという ことを。 冬雄は気がついている。その一歩を踏み出す勇気が、自分には、もうあるということを。 そのことを、”彼女”が気がつかせてくれた。 夜空を見上げながら、2人はそれぞれに、心の内で彼女に言う。 ――ありがとう・・・・・・と。 完 |